庄内の"島"の成り立ち

千葉埼玉暗渠対決(勝手に)コラボ企画ということで、千葉県の暗渠を応援しています。
千葉県の応援だけでなく、埼玉県の応援も少しやってみます。
埼玉県といってもあまり埼玉県でないような、どちらかというと千葉県に近いような、でも埼玉県には違いない。そんな地域についてです。

最初は暗渠要素がありませんので暗渠が見たい方は次の記事からお願いします。



金杉台地、という台地をご存知でしょうか?
1641年の江戸川改修によって、下総台地から切り離された二つの台地のうち一つで、現在の埼玉県春日部市と松伏町に位置しています。

今回取り上げる暗渠はその金杉台地から流れ出す谷にあります。山の手台地などと比べると少し知名度の低い地域になりますので、おさらい程度にこのエリアの地理の解説をしていこうと思います。

冒頭で埼玉でなく千葉のような埼玉という表現をしました。この地域、具体的には旧埼玉県北葛飾郡庄和町は、歴史的には下総国葛飾郡にありました。下総国=千葉県と考えて差し支えありません。実際に1875年までは千葉県に属していました。

千葉県であった時期はごくわずかで、1875年から現在までの約140年間はずっと埼玉県にあるわけですが、現在のように埼玉の一部とみなされるようになった経緯は少しだけ複雑です。

武蔵・下総の国境、現在の埼玉と千葉の県境の変動がその原因になります。もともと両者は利根川を境目としていて、現在もそれは変わっていません。ただ、利根川そのものが動いてしまっているのでした。
利根川東遷事業と呼ばれる一連の河川改修によるものですが、江戸時代の狭義の東遷よりも前に変動は始まっています。

中世末期の16世紀頃、小さな大変動が起きました。それまでの利根川と荒川は、現在元荒川をR16がまたいでいる岩槻大橋の下流あたりで合流していました。この合流地点が一気に約15kmも下流に下って、埼玉r52吉川橋、現在の元荒川と中川の合流点で合流するようになります。

この変動で、それまでの利根川東岸=下総だったものが、利根川が東に移動したために、利根川西岸=武蔵になってしまった地区があります。現在の春日部市南部と越谷市北部のあたりです。
この地区は新方領と呼ばれるようになります。

下総国の利根川東岸には、下河辺庄という荘園があり、その一帯は庄内と呼ばれています。先に書いた新方領となる地区も、下河辺庄の一部でした。それが利根川の移動によって分断されてしまったので、新方領は武蔵国に編入されます。
この下河辺庄の解体と新方領の成立というのはとても面白いテーマなのですが、今回はあまり関係ありませんのでかいつまんで書きます。

さて、小さな大変動だった利根川荒川合流点の変更から数十年して、江戸時代に入り、いわゆる東遷事業がはじまります。おおまかに利根川荒川の分離、利根川筋の渡良瀬川筋への変更、渡良瀬川筋の新規開削、赤堀川による常陸川への通水、東遷完成といった段階を踏みます。
利根川は段階的に東に遷っていくわけですが、このうち武蔵下総国境に関する部分は、中ほどの渡良瀬川筋の新規開削までです。これが1641年の出来事になります。

ようやく1641年に戻ってきました。利根川は16世紀の古隅田川から古利根川に遷り、さらにこの頃には庄内古川、以前の渡良瀬川筋を流れるようになっていました。この流れは一言で言うと排水不良でした。それを改善するために関宿から金杉まで新水路の開削がなされます。
冒頭で書いた二つの台地はこの新水路の開削で下総台地から切り離されました。今回触れる金杉台地は先ほど出てきた金杉という地名から名前が採られています。

こうして金杉台地のある地域は利根川西岸となりました。しかしこの変化がそのまま国境に反映されることはありませんでした。1641年以前の利根川であった庄内古川、現在の中川より西側と、庄内古川と先ほどの新水路、現在の江戸川の合流点(金杉)より南側は、下総国葛飾郡から武蔵国葛飾郡に移っていたものの、庄内古川より東側の地域は下総国のまま残されたのです。この地域は下河辺荘と庄内(古)川の名前を採って、庄内領と呼ばれます。

結果として、隣り合った場所に、下総国から分離され武蔵国となった地区=新方領と、下総国に残りつつも地理的には分断されている地域=庄内領が並び立つことになりました。明治に入るまでこの状態が続きます。
江戸川と中川に挟まれ、下総国とは川で隔てられながら武蔵国に臨む金杉台地は、まるで中川低地に浮かぶ離れ小島のようになっていたのでした。

明治に入るとようやく、むかしの国境線の整理が行われます。1875年に金杉台地を含む地域は千葉県から埼玉県に編入され、のちの北葛飾郡庄和町となります。庄和町という名前も庄内から採られたものでした。
この名前が最近まで長く続いたのでこの地域はどちらかというと庄内というよりも庄和と記憶されているかもしれません。ともあれ、埼玉県になってからも、庄内領は庄和町を中心として一体となっていた地域でした。

また年月が流れて2005年、庄和町は西隣の春日部市と合併してその一部となります。これが現在に続き、いまの金杉台地はほとんどが埼玉県春日部市に属しています。
春日部市はもともと、先述した新方領の地区を領域に含んでいて、その中心部でもありました。つまり400年余の時を経て、分離分断された新方領と庄内領がついに一つになりました。

中世から続く下河辺荘とその解体、新方領と庄内領の分立、そして庄内領の新方領への統合、下河辺荘の解体の完成。これらを利根川の遷り変わり、国境県境の移動や自治体の合併とあわせてみるとこの地域をより楽しめるかもしれません。
長い説明になってしまいましたが、これでもかなり端折って書きました。細かい経緯に興味があれば、説明に出ている単語であったり、庄内古川、中葛飾郡などといったキーワードで検索してみてください。


ここからは暗渠関係の話になります。もう少し続きます。

次回の記事から金杉台地の谷を少しだけ見ていきます。記事のカテゴリが千葉県になっている事情は上に書いたとおりです。個別に入る前に一つ確認しておくことがあります。これらの谷はどんな川の支流なのか?についてです。
結論から書くと、わからないので明言できません。

上に書いた東遷の流れを踏まえて書けば、谷の水の流れ着く先はもとは渡良瀬川(太日川)だったものが、流れはそのままに利根川となり、さらに庄内古川に名前を変え、現在は中川になっています。

下流側の東京湾に流れ出るまでをみると、金杉で渡良瀬川筋(江戸川)に入っていたものが中川の改修で段階的に下流に下がっていき、現在はほぼ利根川筋(中川)を通って海に流れ出ています。

現在の状況は、正確なルートは上手く辿ることができなかったのですが、他の庄内領の悪水路と合わさって中川に排水されていると考えられるので、大まかな括りでは利根川水系中川支流ということになるでしょうか。

ただし、過去に遡ってみると、この付近の中川が人工水路であることと、沼沢地の存在が状況をわかりにくくさせています。



金杉台地の南西側の中川低地を中心にした地図です。地図西端の中央から南東に向かって、中川が流れていますが、西半分は直線状になっており、人工的に造られた流路らしいことがわかります。地図中央下に古川通という地名が見えます。この付近から下流は自然堤防の中を通っており、庄内古川の河道をそのまま利用しているようです。
地図上には沼の字を含む地名が散見されます。周辺が沼沢地だったことがわかりますが、ほとんどが干拓されて水田になっています。中でも飯沼は一番大きかった沼で、地図中央あたりを中心として直径2kmほどもある巨大なものでした。北はr42から南は中川まで広がっていたようです。
金杉台地はr42の北東側に広がっていますが、台地と中川は飯沼とその周辺の沼沢地によって隔てられています。

地図を見る限りでは、金杉台地から流れ出る谷は一旦飯沼か周辺の沼沢地に流れ込み、地図右下の沼尻になっている部分から庄内古川に流れ出していたと考えられます。ただし、中川として改修される前の庄内古川と飯沼の関係がわからないので、推測でしかありません。

地図の左下には古利根川が、右上には江戸川が少し見えています。古利根川と中川の間は狭く、沼沢地は広く、また江戸川は金杉台地を挟んで離れて流れていることがわかります。意図してのことかはわかりませんが、開削された江戸川はこの沼沢地をバイパスする形になっているのです。

庄内古川の流路への興味は尽きないのですが、ここは前提となる部分だけに留めて、次回から金杉台地の谷に入ります。
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by blognest | 2016-03-27 01:35 | 千葉県好きですか

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